PONTAkun’s blog

自分の生きてきた経験や思いを素直に書いてます

人はみんな

おはようございます!!


今回は障害について書こうと思います。


よく発達障害適応障害、何たら障害って言葉を聞きますけど、この「障害」って言葉が僕はあまり好きになれません。


なぜなら障害という言葉をつける時点で、普通の人の水準に達していないと言ってるように聞こえてしまうからです。


いったい何をもってして障害というのか?


それは簡単に言えば学校や社会というステージで決めた通りのことが出来るのかどうかです。


例えば勉強。


学校では勉強が出来た人間が優秀とされ、勉強ができない人間は落ちこぼれとなります。


そこで勉強の出来ない人間、僕を含めて多くの人間が自信を失って自分には価値がないのだと思えてきます。


だけどそれはよく考えればおかしくて、あくまで学校や社会で決められた範囲だけの話です。


僕も今でこそこうやって思えるようになりましたが、中学時代の自分はゴミみたいな存在だと思っていました。


しかし、大人になって思えばそんなことは絶対ないだろうし、勉強が出来ないくらいで自分を責めるのは危険。


勉強が出来るか出来ないかで自分のことをはんだんしてしまっているからです。


本来、人間にはいろんな人がいて、みんな違って当たり前なはずです。


なのに決められた世界の中で出来るか出来ないか人の価値を図ろうとしてくる。


綺麗事を言ってるだけかもしれませんが、この社会という枠を取っ払えば人間には本来障害なんてものは存在しないはずです。


それを決められた型にはめようとするから、それを出来る人間と出来ない人間に別れてしまうと思うんです。


さっきも話した通り人間はみんは違って当然ですし、社会に決められたことがだけが出来ることを価値とはしていないはずです。


例えにあげていいものか分かりませんが、自閉症と言われる人は頭の良い人が多いと言われています。


自閉症だって誰かが勝手に名前をつけたもので、本当はただの特徴に過ぎないはずです。


またIQの高すぎるがあまり特殊学級に入れられた子がいるとも聞きました。


その子はコミュニケーションが取れず上手く周りとやっていけなかったからそうですが、周りとコミュニケーションとれなかったからといってダメだと決め付けるのはおかしい。


ひょっとしたら物凄い人間になっていたかもしれないのに、周りと上手くやらなければいけないという固定観念が天才の目を潰したのです。


人間は野菜ではありませんが、例えると野菜にはその野菜の合ったそれぞれの調理法があります。


白菜には白菜の調理法があって、人参には人参の調理法があります。


それぞれを生かす調理法はありますし、白菜の調理法が全ての野菜に適応できるわけではありません。


むしろ合っていない調理法をすることで本来のうまみを消してしまい、不味くなる可能性だってあるのです。


日本の教育もそれに近くて、全ての野菜に同じ調理法をして同じ味のものを作ろうとしている気が僕にはするのです。


みんな同じ味付けをして、それぞれの個性が生きるわけがない。


僕らは違って当然なはずでそれぞれの個性や持ち味があるのに、決められたところでしか判断しない。


人はみんなそれぞれ違って当たり前なのに。


だから本当はそれぞれにあった場所があって、それを探してもかまわないはず。


探し続けても構わないはず。


本当はみんなに同じ価値があるはず。


一つのことをやり続けなければならない、一つの職場にいつづけなればならない。


それは全部を嘘だと思うのです。


だからこそ行動し続けなければならないです。


自分の力を発揮できる場所を探すために。


きっとみんなにあるはず。


僕たちには一人一人に才能があって同じ価値がある。




と、思う今日この頃でした(笑)